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映画語bilingualへの道は険しい

昨年の東京フィルメックスのシンポジウム。
黒沢清監督から映画鑑賞のオーソリティともいうべき蓮實重彦氏の名前を漏れ聞きました。
「わからない映画こそ当たり」という映画鑑賞のスタンスに興味を持ち、年末以来数冊蓮實氏の著書を漁っておりました。
「わかんないなぁ~」と思う映画に遭遇することが昨年多かったからでしょうか。
そういう映画をどう楽しむか…そんなヒントが得られるかなぁ~と。
我ながらお気楽な発想(笑)

蓮實氏著書
当然ながらとにかくたくさん映画が出てきます。
映画音痴の私は観たことがないものばかり。
でも映画を観ていなくても楽しめる、ちょっとシニカルなものの見方がとても面白かったです。
三行日記でさえ笑える。恐るべし。

ただ膨大な蓮實氏の著書について語るのは時期尚早というか…もっと読んでみてから映画を観てみてからが相応しい気がするので先送り。

今回は蓮實氏の本からの一節とそこで紹介されていた武満徹氏著書「夢の引用」の話を忘れないように書き留めておきたいと思います。

映画は面白いが映画をめぐる書物のほとんどは面白くない。それは映画語を話せる人が映画の本を書くとは限らないからだ…。
蓮實氏の「映画狂人シネマ事典」の一節にこんな表現があります。

映画語とは何か。
彼によれば
映画語とはあらゆる人にとっての外国語であり、ある時期何かをきっかけとして独習するほかはない他国語。
独習用の参考書は存在せず、知らぬ間にそれに通じていたという以外、体系的な学び方は禁じられている…というか学習方が存在しない言語。
映画をめぐる書物の中で面白いものは秘密結社の一員たち、すなわち知らぬ間に映画語に通じてしまったものたちの合言葉のようなもので書かれていて排他的で選別的で誰にも理解しうるというわけのものではない。

…というわけで
映画語を駆使して書かれたどんなに面白い本もその面白さが結社員以外の人に通じる保障はどこにもなく、それらの本を面白いと思ったらすでに結社員を名乗っていい…とのこと。
そして映画語合言葉カタログとされる数冊、
映画語を見事に操る映画批評家山田宏一氏の著書が紹介されています。

そこで、一人の作曲家が見事な映画語を語る一例として紹介されていたのが武満徹氏の「夢の引用」。

蓮實氏をして
「実にしなやかな言葉の表情が読み取れる…」と言わしめたこの畑違いな人が書いた本に妙に惹かれ、寄り道したらこれがなかなかわかりやすい。
なるほど~と思うことがたくさん書いてあります。
これについてまとめたいと思いつつ早半月放置(^_^;)

とにかくそこに綴られていた映画語を書き留めてみることにしました。(映画監督他の言葉の引用も含む)

映画は夢だ。それこそ悪夢や滑稽な夢、いっさいの人間の欲望が紡ぎ織りなす夢であったが、また同時に人間の夢は映画によってその語彙を膨らませた。
人間は時間と動きを支配したいという欲求をあらわしたのである。


フェリーニ曰わく
映画の真実だって?
映画の嘘つきの方がいい。
嘘はいつだって真実より面白い。…中略…虚構には日常的で見せかけの現実よりもはるかに深い真実感があるかもしれない。
人が見せる物事は必ずしも本物である必要はない。
大抵の場合、それらは本物でない方がましなのだ。
本物でなければならないのは、人が見たり表現したりする時に経験する感情である。

G.コアンセア曰わく
群衆は映画館にあつまる何の理由も持っていない。
ただ映画を観る。たしかにこれは一つの遊びでありこの上なく贅沢な活動であろう。


映画館という暗闇。人間がそれぞれの感情で思い描く忘れがたい闇。
嘘と真実と空想と現実が友好的な接触を保つ夜の空間。
映画はそこで生まれる。

映画は夢と現実を繋ぐ乳白色の通路だ。そこでは事物はけっして抽象化されないし、だが具体性を保つこともない。

子供の頃初めて映画を観て私に強い印象を残したのは物語の感動ではなくもっと別のもの…いかにも猥雑な日常の相貌と酷似したもうひとつ別の現実なのである。
驚きはそれによって日常の時空が不意に意識されることで生じるのだ。
映画は必ず終結へ向かう。
その映画的時間に継起する事象の全てが死の演習に他ならない。

カメラを通してしかとらえられない現実の中にたえず死を感じ続けることが映画的視覚というものなのではなかろうか。

ジョルジュバタイユ曰わく
すなわち彼の腕の中で身悶えしつつ彼の存在を忘れ去る女性、それはとりもなおさず彼自身であるという事実

死の腕の中で身悶えしつつ死の存在を忘れ去る女性、それはとりもなおさず死自身であるような生の世界である。
死はある意味ではひとつの瞞着である


映画によって私たちは絵画的な美をなしていないものに美的なものが含まれていることに気づかされる。

映画は人間の精神と全く同じように本当のこととともにうそもつき、明晰に語ると共に酷く誇張して伝えるものなのだ。映画の視界は観客の精神における視界の大きさに応じて拡大したり縮小したりする。
映画によって分泌される想像力によって私たちは私たち自身の内奥を見るのだ。
人間が映画の中へ浸透していく過程とこれとは不可分な世界が人間の中に浸透してくる過程とを私たちに見られるようにしてくれる


映画は完結した様式というようなものではなくて
それだからいくら映画を見てもまた同じひとつの映画を繰り返し観る愉しみというものを生じ飽くことがない。
もし仮に映画に完成された様式美というものがあったにせよその美しさは他の映画の美しさとはなり得ない。
映画は各個の意識と記憶の深層でさらにモンタージュされ、ひとつの夢を無数に紡いでいく。
あるいは映画は記憶の鏡とも言えよう。
フェリーニの愛の方法は映画であり、その夢の人工培養器の中でまだ見ぬ夢の卵を孵そうとしている。
フェリーニ曰わく
もし人々が私の映画を通して彼ら自身の中に私の映画を承認することによってその人自身をも等しく認識するようになるなら、その時彼らは自らはっきり意識して離脱した状態を達成したことになる。そしてそれは新しい選択を行ったり、変化をもたらしたりするのに絶対必要なことだ。

私たちは実生活の中でも鏡や写真の前では特別な感情にとらえられる。
雑踏の中ですら人はショーウインドーに映る自分を眺めて不意に立ち停まる。
それは連続する時間の中では知覚されずにいる生の深い深部が、ガラスに映る実存性のない自分の写像を通して不意に知覚されるからなのだ。
連続するものから剥落した一枚の薄い被膜に残された時間の痕跡に触れることで生じる理由ない感情に戸惑って人は歩行を止める。
そして映画は現実を解体してまた新たな別の時間構成によって組み立てられたきわめて非現実的な世界なのである。
随って、そこに現れる写真や鏡という表徴は日常生活でのそれとはまた異なった意味を持つものとして作用する。
それは夢の象徴的な言葉である。
映画のもつ現実感そのものが映画からその実践的な実存性を奪い取る。
はじめに存在していた実際の行為は過ぎ去っていて、今では不在なのである。
観客はかれが映像をみているにすぎぬことをよく知りまた映画を美学的なものとして感じようとしてその想像をたえず脱物象化しているのである。
こうして夢あるいは幻影と比較するなら映画が現実と非現実との錯綜として成り立っているのがわかる。
映画は生と死の二極を交錯する人工のオーロラのように魂のいろいろな状態を思い起こさせるためにとらえられた光りによって可能な芸術様式である。

私は個々の映画の物語性というものにはさして関心を持てない。
私にとって映画は夢の引用であり、そして夢と映画は相互に可逆的な関係にあり、映画によって夢はまたその領域を拡大し続ける。

私の興味は鮮明で現実的な細部が夢という全体の多義性を深めているように、映画においてもその筋立てより物語に酵母菌のように作用してそれを分解するような細部へ向かう。
だが実際問題としてそうした細部、夢の破片を言葉によって写し取るのは不可能である。
それを可能にするのはまた映画でしかない。
映画においてイメージはこの現実に何か余分なものを付け加えたりするものではない。
イメージは現実にあって私たちが見過ごしているものなのである。

エドガールモラン曰わく
映画は現実を反映する。
けれども映画はほかのものを夢を同時に伝えるものなのである。
これらの夢が映画そのものを形づくる。だから映画は観客なしでは何物でもないのである。

映画によって自分の意識は広げられ思考の視座も幅を増したのは確かで、クリスチャンメッツ流に言えば虚構能力を身につけたのである。

以上
本当に気になった表現を全部抜き書きです。(^_^;)
ほんの一部
部分的なメモ的抜き書きですのでお目こぼし頂くとしてm(u_u)m
こういった表現がそれに呼応した映画と共に詳しく語られております。
興味がある方は是非。

多分私の映画語、韓国語のスキルと同程度(笑)

蓮實氏曰く
…映画語は大人になってからお稽古ごとのように始めてもものにならなくて、幼少期から映画に慣れ親しんでいることが決定的なのだ。外国語の鮮度が触れていないと落ちるように映画語も遠ざかっているとたちまち感性が鈍る。
18歳頃までに記憶の底に500本くらいのフィルムの影が揺れていて、以後成年に達してからも年平均100本内外のフィルムを付け加えるという試練を続けないと映画語を操ることは出来ない…

とのことですので私が映画語を習得出来る可能性は限りなく低いとは思うのですが、奇跡が起きるかもしれないし。(笑)
参考書はないと言われつつもコツコツいろいろ読んでみようと思うのでした。

余談ですが
この本にエレファントマン・
イレイザーヘッド繋がりでデヴィットリンチがフランシスベーコンの下で絵画を学んだことが書かれており、その作風の影響についての記述がとても興味深かったのでご紹介。

「背後にひそみながらも押し出されて現れてくる言いようのない不安とか現実の恐ろしさとか…これはこの種の視点を最初にもったキルケゴールが自分自身でありたくない、ひとりの人間でありたくない、自分自身とは別の者でありたいという直接性の絶望、デモーニッシュな絶望、ニヒリズムと呼んだものだ…」

これはハーバードリードの言葉の引用なのですが、この表現はリンチの映画にも共通する…と武満氏は語っています。
フランシスベーコンと言えば「Icome…」の中でトランアンユン監督がモチーフとして使ったのが記憶に新しく。

タイトルも「十字架の下の人物の習作」だったりと、この映画にもかなりいろいろなものが盛り込まれている事が想像できます。

ただ。
映画はメッセージを受け取るという見方もあると思うのですが、
自らがどう感じるか…(DVDでトランアンユン監督もそう語っていたのが印象的)
蓮實氏や武満氏の言葉を書き留めながらそんな姿勢で映画と向き合っていけたらいいかなぁ…と思っています。

前記事で
ドラマについて書いたのですが、こうして改めて映画について書いてみると、映画とドラマは似ているように見えて全く違うものだと気づかされます。

私、ドラマ語はある程度理解出来ると思うのですが…。
映画語はこれからの人生で修得可能かなぁ…。

多分彼は映画語堪能かと。
語学の才能あるって自分で言ってたし。(笑)
同じ秘密結社に所属出来たら嬉しい…下心いっぱいの野望です。(*^_^*)
乙女の向学心は下心見え見えなのでした。(笑)
17:45 | 読書 | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑
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